格差社会ってどんなもの

大学時代、誰もが知ってる某著名教授に一般教養レベルの経済学を学んだのですが、
経済学はさっぱり分からないままでした。

それでも、就職活動をしていた頃だと思うのですが、
隷従への道―全体主義と自由
を読んで、いちおう、「経済に関していえば、新古典主義的なアプローチが妥当であるな、
ベストではないかも知れないが、これに勝る方法は今のところ無いようだ」という確信を
得ていました。少なくとも、計画経済なんかうまくいきっこないし、計画経済が
不可避的に導く政治的に不自由な社会なんかごめんこうむると思っていました。


時は流れて十余年、世にはストックオプション成金とでもいうべき小金持ち・大金持ちが
現れてきて、一方では高齢フリーターやらなんやら、お金に苦しむ人もいるというでは
ないですか。

新古典主義を信じる身としては、「市場は失敗することがある」ということは分かりきった
ことではあるし、貧富の格差が生じるのもやむをえないことであるのは分かっていました。

基本的には、こうした格差というものは、マクロ経済政策と社会政策によって調整可能な
ものであり、そうあるべきと思うものの、
(現代の-もしかしたら特殊な-社会・経済の状況が、そうした手段を無効にしてしまって
いるのでは無かろうか?)
という疑念を持つにいたりました。


そこで、今回、『論争 格差社会』を読んで、ちょっと考えてみようかと思った次第です。
これを選んだ理由は、いろいろな論者の論文、対論が掲載されているので、面白そうな分析が
あったら、さらに踏み込んでいくためのブックガイドになりそうだったからです。


私の現在の経済的・社会的な立場をひとことでいえば、贅沢はできませんが、それなりに
中流的な生活を送っています。
別の言い方をすると、どうやら格差の上にも下にもいないらしい、というところ。


で、『論争 格差社会』です。

これ、とてもいい本です。文藝春秋の新書なので、保守寄り一辺倒かもな、と思いながら
買いましたが、バランス良くいろいろな議論を載せようとしていました。

まず、経済学者・社会学者による統計にもとづうくきちんとした分析があります。
希望格差社会』の山田昌弘氏の論文も載っています。竹中平蔵氏の対論もあります。
ひきこもり論の斎藤環氏もありました。「年収300万円」の森永卓郎氏も対論で
見解を述べています。

あえて探せば、「ニート」概念を日本で広めた玄田有史氏の議論が無いのが惜しい
ところかもしれません(まあ、実はこの人、本書の中の複数の記事でケチョンケチョンに
叩かれているのですけど)。


結論から言うと、経済学的・社会学的な統計によれば、(一部でいわれるような)
政策によって誘発された格差は生まれていないようです。
ジニ係数のような数値で示された「格差」は、実際のところ社会の少子高齢化にともなう
ものと考えるのが妥当です。

あえて政策的な失敗を指摘するならば、社会経済政策全般というよりも、いわゆる
バブル崩壊の頃の、マクロ経済政策の失敗。つまり、不況対策、景気対策の失敗です。
この期間の若年層(現在は、20代後半から30代後半くらい)が、不況のために
正規社員になれず、現在も非正規社員のままでいなければならない、という状態が、
社会に蔓延する不安感・不公平感を醸成したのではないかと思われます。

したがって、政治に期待するべきは、まず第一に適切なマクロ経済政策による安定的な
経済発展でしかありえない。竹中平蔵氏の別の書籍によれば、日本は(当然高度経済成長は
無理なものの)年間に2から3パーセントの経済成長をするだけの能力があるそうなので、
それを目指すことでしょう。

第二に、社会政策ですね。現在の、20代後半から30代後半くらいまでの非正規社員で、
望む人を正規社員にするための手段を用意すること、でしょう。

全く面白みの無い結論ですが、
これ以上のことをしようとすれば、様々な社会・経済的な非効率や、非人間的な強制を
生むことになってしまうでしょうから、やむを得ないところですかね。

そんなわけで、『論争 格差社会』。いろいろ学べてお買い得な新書でした。ぜひお勧め。


全体を通じて言いたいことは以上です。
以下、各論について補足します。


斎藤環氏は、なんでこんなに偉そうなんでしょう?精神医という立場を利用して、
ものすごく高いところからご意見を述べられております。ちょっとムカッときました(笑)。
他人の精神分析はお手軽にやってみせてるけど、あんた自身はどうなんだと(笑)。
これだから精神科の先生の社会分析は信用ならん、と思いました。
社会的ひきこもり―終わらない思春期
は面白かったんですけどね。

「そんなにいるわけない!ニート「85万人」の大嘘」は興味深かった。『「ニート」って言うな!
』の著者らによる対論なんですが、玄田氏の胡散臭さを
容赦無く叩いています。『ニート―フリーターでもなく失業者でもなく』はひどい本でしたから、溜飲が下がる思いでした。あの本、統計データの扱い方が変だし、主張も低レベルなんですよね。

渡部昇一氏と日下公人氏の対論は、すげー的外れで笑いました。戦前の社会から続く「大庄屋」の家が、地域社会でパトロン的な役割を果たしていたことや、大金持ちの子息が高等遊民として存在することの意義を述べ立てているんです。いや、面白いエピソードは多いんですけど、そこじゃないでしょ、今の問題って。「一億総中流」という意識が生まれた後の現在に、貧富の格差が生まれてきたことが大問題だと思うんですよ、先生方。

不平等社会日本―さよなら総中流
を書いた、社会学者の佐藤俊樹氏のナイーブさには、ちょっと引きました。

SSM調査(社会階層と社会移動全国調査)のデータを使って、社会の階層を分析する作業に、なんだかすごい罪悪感を感じておられるんですよね。職業間のランク付けをやることを「汚れ仕事」とか言っちゃってます。本当の汚れ仕事をしている人に謝れ!って感じですね。これだから学者さんは・・・。もはや佐藤先生は「職業に貴賎はありませんよキャンペーン」みたいな啓蒙活動をやるしかないんじゃないでしょうか。すごく気持ち悪いんですけど。

佐藤先生には、リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理
を読んで、自身のリベラルな理想がいかに不可能性に満ちているか検証していただくといいのかも知れないな、と思いました。