『ETV特集 被災農家を救え〜若きビジネスマンが挑んだ農業再生550日〜』視聴

11月はじめに再放送を録画して(本放送は10月)、しばらく寝かせてしまったのですが、昨夜寝付けない時間に視聴しました。

さらに眠れなくなってしまいました。

 

京都の会社社長西辻一真氏と、宮城の農家斎藤氏に取材したドキュメンタリーです。

 

西辻氏は、京都大学農学部を卒業後、仲間とともに体験農園を運営する企業(マイファーム)を作った方。子供の頃から農業に親しむなかで、近隣の休耕地を目にし、その復活を考えるようになった。休耕地の持ち主である農家から土地を借り、土壌を改良し、体験農園にする。獲得した利益から農家へ地代を払う。そんなビジネスをはじめ、設立から数年で農園は60を超え、年商は2億円に。

そんなときに起きた東北大震災。西辻氏は土壌改良の技術、農業経営の知識をひっさげて、被災地の農家を支援に向かう。除塩、土壌改良、塩分に強い作物の植え付けで、2011年中にいくつかの地域で成果を挙げることに成功する。

一方、宮城県亘理町の農家・斎藤氏は、地元の農家の七代目。これまでイチゴ農家として、近隣のイチゴ農家とともに高級イチゴを生産してきた。地域のリーダー的存在であった。しかし、震災で津波が押し寄せ、沿岸の300メートルにわたる防風林とともに、ハウスは押し流される。津波が去った土地には、塩を含む砂が厚く積もっていた。

国は、農業の再開には除塩などのために3年かかると見積もった。亘理町は、2011年秋に、イチゴ農家再建のためのプランを作成。大規模なイチゴ農園を作り、地域のイチゴ農家を一括で救う計画を建て、150億円の予算を国に申請する。

そんなときに西辻氏が亘理町を訪れる。2011年秋に撒いた除塩効果のある菜の花は、強い海風のためにしおれてしまっていた。こうした風土で、除塩のために3年かかるのでは、農家への負担が大きすぎる。そこで、塩分を含む土地、風の強い土地でも栽培できる、低木の、加工用トマトの栽培を考えだす。亘理の農家たちに対して、農業事業法人を設立し、トマト栽培をしないかと呼びかけた。がれき拾いのアルバイトも途絶えようとしていた農家たちの多くが、その呼びかけに応じ、農業事業法人はスタートする。

しかし、栽培をはじめるには農具が必要。初期費用として1500万円あまりが必要であった。西辻氏は国の復興交付金を使うことを考えていたが、亘理町は、「亘理町から申請することはできない」という。なぜなら、亘理町はイチゴ農園事業で申請することになっていたからであり、申請を通すためにこちらの事業に力を注ぐことはできなかったのだ。

そこで西辻氏は、半額を支出してくれる制度の利用へ切り替え、残りの半額を流通先(トマトを買う事業者)から都合することを考える。栽培契約をし、前金として750万円を受け取ろうというのである。しかし、流通先の答えはノーであった(※750万円は、加工・流通業者からしても少ない額ではなかったからであろう)。

国の側でもなかなか認可がおりず、流通業者からもノーといわれ、やむなく西辻氏は自社から1500万円を立て替えることにする(※被災農家は住宅、土地を失っており、また被災前のハウスの負債も抱えていた)。我慢の時期が続く。

そんなころ、西辻氏の会社の顧客、西辻氏の会社の同僚たちにとって、社長である西辻氏は、被災地支援にのめりこみすぎに見えていた。1ヶ月も京都本社に出社しないことがあったのである。本来の事業を放り出しているように見えたのはやむをえないことであった。

2012年6月末、西辻氏は同僚から「代表を降りて欲しい」と伝えられる。西辻氏は30歳の誕生日、結婚記念日を迎えたばかりであった・・・。一社員として、月に1回だけ被災地を訪れることを条件に、西辻氏は会社に残ったのであった。

8月、斎藤氏らのトマトがはじめての収穫を迎えた(亘理町のイチゴ農園事業は、国の認可がまだ降りていなかった・・・)。

斎藤氏は、「次は大根をやって、しみ大根に加工して売ってみようと考えている」という。そんな斎藤氏の話を聞いた西辻氏に、「この1年を振り返って、どう思う?」と聞くと、「まだ過去の話として考えられない。『現在進行形』の話だと思う。農家の営みがかえってきたとき、振り返れるのではないか」という答え。

被災農家の復活は、まだはじまったばかりなのである・・・(終)

 

西辻氏の当初計画が、「全額国費利用」だったのはちょっと甘いんじゃないかなあ、とは思ったけど、それにもまして国の判断が遅すぎるし、予算を絞り過ぎ。復興庁を被災地に置かなかったのも失敗じゃないか?と思いました。西辻氏のような、きちんとした事業計画と経営経験、農業知識を揃えた人材が、復興庁の支援を受けながら、もっと自由に活動できていれば、西辻氏はもちろん、被災農家の苦労もずいぶん減ったのではないか。

憤りでなかなか寝付けませんでした。