集団的安全保障に関する騒ぎについて思ったこと

あの騒ぎを見て、「まず憲法を改正する取り組みをするべきだった」「今時の人間なら合理的な改憲は可能なはずだ」と考えて、「解釈改憲でなく改正を」という意見を持つ方もいると思います。「そうすれば憲法学者も黙るだろ。」僕もそう思わないでもないです。

 

でも、護憲派憲法学者には、もうひとつ武器があるのを思い出しました。「憲法の改正をどこまで許すか」という論点です。言い換えると、「現行憲法を改正する、その権力の源泉はどこにあるのか」。この問題を、改正案の提案者を批判するために持ち出せるのです。

まず、「憲法改正を正当化するのは、現行の最高法規である現行憲法である」とするなら、改正は現行憲法の枠内か、少なくとも現行憲法が想定する範囲内でなければいけないことになります。これにより、「集団的自衛権は現行憲法に大いに反するから、その改正案は無効だ」というロジックを捻りだせます。

逆に、憲法改正を正当化する権利をよそから持ってくるとすると、改正案を提案する人は、「現行憲法が最高法規ではない」ということにしなければなりません。憲法学者はそこを突いてくるんじゃないでしょうか。

 

つまり、「現行憲法を改正する正当性は、現行憲法が与える」「現行憲法以外が与える」のどっちにもってしても、憲法学者は現行憲法を盾にして、改正案を批判するロジックを捻りだせるわけです。

実にトリッキーな論理です。私は学生の頃にこのへんの議論を読んで、憲法学の教科書を読むのをやめました。バカバカしくなってしまったのです。50年も前に文章で書かれたものごときを「最高法規」として神聖視・絶対視するからこんなトリッキーな話になるんだろ、と思ったものでした。

 

そんなわけで、「安倍総理は正面から改正をやらなかったのでダメだ」というのは違うと思うのです。こんなトリッキーな議論に付き合って、目の前の問題から目をそらしてはいけないと思うからです。

それに、なんといっても、憲法公布後長いこと存在していなかった憲法の改正手続きの法律を成立させたのは、安倍総理ですから(最初の任期のとき)。正面から憲法問題と取り組んでいると思います。むしろ、地ならしとして、安全保障を考えるきっかけとして、長い目で考えて今回の法律を成立させたんじゃないかとさえ考えてしまいます。根拠はありませんけどね。

 

でもって、何か若い人たちが「民主主義を否定した」みたいなことを言って騒いでいるようですね。若い人はしかたない。まだ知らないことも多いでしょうし、血気にはやるのは若者の特権だし、そうしたエネルギーが世の中を良くすることもあるでしょうから。

でも、大人はもうちょっと知恵を持たないといけない。若者たちに同情的な大人こそ、距離を置くくらいのつもりで、きちんと教え諭すべきだと思うのです。もし同じ方向で頑張るなら、賢く戦わなければいけない。一緒になってデモに参加し、「たたっきってやる」とキメぜりふをわめいたりとか、「フランス革命に近い」とか、参加者におべんちゃらを言ったりとか、そんなことをしちゃあいけません。女性議員を並べて「セクハラだ」なんてのは言わずもがなです。大人がそんなやり方でどうする、と、強く思います。

まずなんといっても、形式的には安倍総理の側に筋が通っていることを思い出さないといけません。昨年のうちに集団的安全保障の件については閣議決定をしてあります。その後に衆議院議員選挙があって、自民党マニフェストにはちゃんとそれが書いてありました。選挙できちんと勝った上でやってるのに、たかだか数万人のデモが無効だった程度で「民主主義が否定された」とか言っちゃあいけませんわな。「なぜ今回の法案に反対するのか。我が国の安全保障をどうやって確保するのか。代案は出せないのか」こういう議論を堂々とやってほしいものです。

 

本当に、リベラルの皆さんには、ぜひもっときちんと賢く頑張っていただきたいと思います。