吉田調書の公開について考えたこと

まず、故人である吉田所長が「自分の思い違いがあるかもしれない。にもかかわらず、唯一無二の『事実』であるかのように流布するのは望まない」という意思を持っていて、その意思にもとづいて非公開になっていたことを確認したいと思います。

 

政府が何かを隠そうとした、ということではないということです。吉田氏の調書以外で、様々な調査が公開されているわけで、「隠ぺい」という陰謀を考えるのは現実的でないと思う。政権も変わっていますしね。

 

そのうえで、非公開にするはずの資料がリークしてしまったことは、政府は大いに反省するべきです。情報管理の仕組み作りをしないといけない。

 

ただ、リークしてしまい、しかも「調書による」という新聞記事が複数出て、しかもその記事が互いに矛盾するとなったらば、公開するのもやむを得ないでしょう。それは故吉田氏の願いにも沿うものだと思います。むやみに絶対視されたくない、という意図が、リークによって破られて、異様な絶対視が行われてしまった、のですから。公開して、他の当事者、あるいは資料と突き合わせて、検証されることが、次善として望ましい、ということです。

 

「公開してしまうと、政府の調査に対して正直に証言する人が減るのではないか」という意見もあるようです。が、それは今回のケースではちょっと違うのではないか。むしろ公開しないことで、吉田氏や現地にいた方々の名誉が損なわれているのですから。

 

いずれにせよ、報道の一方を朝日新聞がした、というのが、事態をひどく情けないものにしてしまっていると思います。ちゃんとした報道機関同士だったら、たがいに自社の報道を裏付ける取材をし、きちんと言論で「実際はどうだったか」を明らかにすることができたかもしれない。たくさんの取材によって、吉田調書の位置づけが相対化できたのではないでしょうか。

吉田氏にもインタビューした上で、著書をあらわした門田氏や、他の新聞社の取材に基づく記事など、ちゃんとした報道機関・ジャーナリストもいるのは間違いないんですが、残念ながら、今回の当事者は朝日新聞なんですよね。

 

報道直後から誤りが指摘され、証言者自身がウソを自白していた事案について、30年も経たないと訂正できないダメ新聞社。これが政府の決定に影響したんじゃないかと思います。実に情けない話です。